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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
嘗て
私がパリに勉強に行っていた頃…などと言うと、後輩の一人は「恐竜が居た頃?」と言って笑うのですが(笑)時間が無くて一度入っただけなので一部の展示品しか見られなかったこともあってか、ルーブル美術館でも恐竜は見かけませんでした。というのは冗談としても、短期間ながらオペラ座での仕事もすることになってからは多忙を極めて、時々楽譜を探し回る他はレッスンとオペラ座以外には出歩かない…というより、出歩けない日々を送っていました。
そんなある日
久し振りの休日…ということで、今でこそ和食店も多く本格的なラーメン店も複数有るものの、当時の私が出歩けた範囲では和食店が一軒だけで美味しくなく…などと思いながら歩いていると、パレ・ロワイヤルからオペラ座方向に少し歩いたところで白地に黒い字で[九州らーめん よっちゃん]と書かれた看板が見えたので、面白いと思い入ってみました。すると、地下の店内には巨漢の黒人シェフが居て、恐ろしく訛りのある日本語で「いらっしゃぃ!」と言うので、早速その店の看板商品らしい九州らーめんを注文してみました。
すると
トンコツスープにチャーシューと紅ショウガの乗ったラーメンが出て来た…と思いきや、やや薄暗い地下の店内とはいえ何かが違うような気がしながらも箸で麺を持ち上げながら一口食べた瞬間に「????」と思いました。が、不味いというわけではないので、その驚きを抑えながら食べ進めたところでシェフが再び訛りのある日本語で「美味しいだろう!日本人か?どうだ?」と訊いてくるので、私は「美味しいけれども九州ラーメンではない」という趣旨のことを伝えると「本場の味には敵わない」という類のことを言っているので、私としてはそれ以上話すこともなく、美味しいには美味しいので完食して出て来ました。
美味しいには美味しいものの…とだけ書くと、パリで食べるらーめんなのだから、それ以上のことを要求するのは手厳し過ぎると思われるかもしれませんが、実はそれは本場の味に比べて…などということとは全く次元の違う状況だったのです。というのは、まずトンコツスープ…と思いきや、それはコンソメスープに牛乳を加えたもので、麺はスパゲッティ、チャーシューはローストビーフを薄くスライスしたもの、紅ショウガと思ったのは赤いパプリカの千切りを炒めたもので、見た目は一応それっぽいとはいえ、要するにスープスパゲッティのような食べ物でしかなく、不味くはないとはいえ九州らーめんと称するには無理がある食べ物だったのです。
今でこそパリでも本格的な和食が食べられ、ラーメン店も立ち並ぶようになったものの、今度は日本国内の、それも私が専門としているヴァイオリンの演奏や指導の現場では[九州らーめん よっちゃん]を見かけることがよくあります。と書いたのでは意味不明な日本語なので(笑)正確に書くと、私が専門としているヴァイオリンの演奏や指導の現場では、既述の嘗てパリで遭遇した[九州らーめん よっちゃん]の如き有様が見かけられるのです。と書くと、東洋の島国の日本で西洋文化であるクラシック音楽を奏でている者のなかには、必ずしも本場の本格的な演奏スタイルではない者も居る…といった類のことを想起される方もいるかもしれませんが、決してそのような高邁な話ではなく、ヴァイオリンの特に学習者に対する指導において、まさに既述の[九州らーめん よっちゃん]の如き状況を見かけることがあるのです。
つまり
前の記事でCDや録音を聴く…とはいっても、その音源における運指(開放弦やポジション移動の箇所だけでなく、1234の何れの指を使っているか)や運弓(スラーやスタッカートやソステヌートの具合だけでなく、ダウンとアップの何れであるか)について総て聴取できた上ではじめて校訂譜に綴られている内容やそれ以外のことを知る手掛かりとなるのであって、そうしたことも聞き取れないないままに録音を繰り返し聞いたりすることは大雑把にしか捉えられていないことを意味すると書きました。そのため、そうした聴取や判別ができていないままに繰り返しくりかえしCDを聴き覚えて弾いていると、ヴァイオリンの演奏のように聞こえても実際にはそれっぽいだけでヴァイオリンならではの運指や運弓を基礎から正しく身につけていない演奏になってしまい、表面的に真似るだけで内容的なものは踏まえていないことになります。そしてそのように表面的に真似るだけで内容的なものは踏まえていない状況はまさに既述の九州らーめんと同じであることを意味します。
にもかかわらず
指導者のなかには、そうしたヴァイオリンならではの運指や運弓も聴取できないままに、必ずしも自らが弾く運指や運弓と完全に同じではない録音やCDを繰り返しくりかえし聴き覚えてから演奏するように勧める者も居ますが、そうした指導者というのは、そうしたことをさせる時点で、録音やCDにおいて運指や運弓などを総て細かく判別はできていないことを物語っているのです。そして、そのような指導者のもとでは大雑把にしかヴァイオリンを弾けなくなってしまい、それっぽいだけで実際には似て非なる演奏しかできなくなってしまうのです。
ということで
これもまた前の記事で書いたように、CDや録音を聴く…とはいっても、ヴァイオリンの愛好者が名曲を鑑賞する場合と、ヴァイオリンの学習者が課題を聴取する場合と、ヴァイオリンの指導者が録音を判別する場合では、それぞれ聴き方が異なるのです。そして、私は学習段階にあって大抵の曲はCDや録音を聴くこともなく先ずは楽譜から学び重ねて来た…というのも、そもそも私の学習段階では未だCDというものが世の中に存在しなかったから(笑)というのは冗談としても、既述のように運指や運弓を総て細部まで聴取し判別することもなく大雑把にしか捉えられないままに(私の子供の頃は)LPや録音を繰り返しくりかえし聴いて弾くなどという暴挙を行わせなかった先生方のお蔭で、単に音符の示す音程やリズムを判別するという次元ではなく、ヴァイオリンをヴァイオリンとして演奏するという観点で楽譜を読めるようになれたことには本当に感謝しています。
ということで
何よりも楽譜に基づいて一音いちおん丁寧に復習うことこそを大切にしていた日々にあって、私が未だ小学生の頃に下掲の楽譜を弾くことになった時には、本当に驚いてしまいました。
というのは、その楽譜には、実に細かい指定が校訂されていて
小学生の私には、それを弾き分けるのが精一杯だったからです、
さらに
後年…といっても中学生の頃ですが(笑)同じ学校の先輩とともに弦楽四重奏を組んで練習し演奏していた際に、中学生でしかないにもかかわらず実に事細かくリズムや音程を指摘するとともに、全員でそれが実現できるまで追求し続けていたチェロを弾く先輩が、今では関西の有名オーケストラの正指揮者の職に就いています。そして、そこまで追求していた先輩との弦楽四重奏の練習の日々でも、既述なまでに事細かい弾き分けは必ずしも要求されない…というよりも、オーケストラよりも弦楽四重奏のほうが各奏者の細かい弾き分けが演奏に大きく反映してもなお、既掲なまでに事細かい表現の差異は必ずしも要求されないことから、既掲の校訂譜は机上の空論に近いものがあるのでは…と思っていました。
それから数年後…といっても相変わらず大学生でしかありませんでしたが、世の中にCDというものが登場した当初はCDとしての製品化を目的とした音源の少なさから、LP当時の音源のCD化が始まった頃に、これもやはりLPの音源をCD化したもの、というよりも、録音テープが無くなっているためにLPを再生してCD化された下掲の録音を聴いた時の衝撃は、今でも忘れることができません。
MAX ROSTAL plays BACH,BEETHOVEN,BIBER TARTINI
SYMPOSIUM 1079
というのは
既述のように、その校訂譜におけるあまりにも細かい校訂内容は、とても演奏で表現できるものではない…と思っていたところが、その細かい校訂内容を記したMaxRostal自身によるヴァイオリンの演奏は、その細かい校訂内容を総て克明に再現するとともに、そのように細かい表現の差異を明瞭に打ち出してしまうと音楽としての流れが阻害され兼ねないにもかかわらず、そこでは流麗な演奏が繰り広げられ、ベートーヴェン/ロマンスのト長調と、それよりも演奏される機会が多いヘ長調の、いずれの演奏においても唯一無二とさえ思えるほどの名演奏となっていたからです。
一体全体、このMaxRostalという人は何者なのだろう…などと思いながら、一歩でも二歩でもそうした演奏に近づくべく来る日もくるひもヴァイオリンの練習を続けているなかでも音階練習の教本が傷んできたので
買い直したカール・フレッシュ/スケールシステムの表紙に、まさにそのMaxRostalの名前を見つけるとともに
その後更に多くのことを学ぶ機会を得ましたが、それについては次の記事に書きたいと思います。
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