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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
もしも
「味付けについては特に得意」という西洋料理の先生が、その得意な点として
「西洋料理本来の食べ応えのある沢山の量を作る方法については自信がある」だの
「部位の途中で味付けは変えたくないので、焼き具合より味付けを重視」だのと
言っていたなら
味付けの話を盛る量に掏り替えている=大盛りなら美味しいのか?
焼き具合より味付け…ではなく、正しく調理すれば両立するのでは?
と誰もが疑問に思い、そのような料理の先生を訝しがるに違いありません。
同様に
「音色については特に得意」というヴァイオリンの先生が、その得意な点として
「ヴァイオリン本来の張りのある大きな音を出す方法については自信がある」だの
「フレーズの途中で音色は変えたくないので、音程より音色を重視」だのと
言っていたなら
音色の話を音量の話に掏り替えている=大音量なら美しい音なのか?
と誰もが疑問に思い、そのようなヴァイオリンの先生を訝しがる筈です。
料理なら、正しく調理すれば、焼き具合より味付け…などということはなく両立し
料理なら、味付けの話を盛る量に掏り替えるような者の料理は不味いだけ
と誰もがわかる筈なのに
ヴァイオリンでは、正しく演奏すれば、音程より音色…などということはなく両立し
ヴァイオリンでは、音色の話を音量に掏り替えるような者の演奏は騒音になるだけ
とは必ずしもわからず
ヴァイオリンに関する既述のような言動を訝しがらない人達が居たりするのは
などと書くと
「もし仮に100%当たる天気予報などというものがあるなら言ってみろ!」
「そもそも100%当たる天気予報などというものは無い!」と言われそうですが
「明日は高気圧と低気圧の配置が変わることで
安定した状態の場所もあれば、天気が急変する可能性もあります」
「従って降水確率が0%の所も、突然の豪雨が予想されることもあれば
反対に降水確率100%でも、晴天の可能性があります」ならどうでしょうか?
そして
『ヴァイオリンがうまくなる「生命の水」!? ではなく… ~その1~』
で書いたように
例えばヴァイオリンでは、単音よりも重音のほうが音程が取り難いなか
そうしたヴァイオリンの重音の音程を一発で当て…などと掲げた記事を書き
そこでは音律に関する知識も…などと書かれていたりするので読み進めてみると
左指を握り過ぎない…、左指の指幅に注意…、右手を力まない…という具合で
結局、音律や音程の定め方は一言も書かれていない…などという記述も
次々に話を掏り替えて、何れの観点でも何となく該当するかの如くに綴ることで
まさに100%当たる天気予報の如くに語っている事例だといえます。
加えて
このブログで何度も書いているように
素人というのは、その物事の素人が玄人っぽく語ると感心してしまうことから
リスナーに毛が生えただけの素人が話を掏り替えスピリチュアルに語れば語るほど
リスナーの段階でしかないヴァイオリンの初心者はその話に感心してしまうのです。
その結果
天気予報で複数の状態をそれっぽく(笑)併記するといんちき予報なのに
ヴァイオリンでは色々とそれっぽく(笑)併記しても胡散臭がられず
むしろ尤もらしい…どころではなく尤もな記述として読まれてしまうのです。
そのように次々に話を掏り替えられるばかりで
ヴァイオリンの音程を明確に取れないような有様で
ヴァイオリンとは音程が異なるピアノや電子楽器やギターなどと合奏していると
『“一丁目一番地” は “一丁目一番地” だった ~その2~』で書いたように
ヴァイオリンの音程が取れなくなるだけではなく
ヴァイオリンの側が微調整してピアノや電子楽器やギターに合わせるのも曖昧になり
それっぽい(笑)だけで完全に綺麗なアンサンブルにはならなくなります。
さらには
『ヴァイオリンがうまくなる「生命の水」!? ではなく… ~その2~』
で書いたように
本来の響きの聴き方が学べず、そうしたことから楽器や楽弓も正しい選択ができず
リスナーか楽器オタクの目線で、それっぽい(笑)能書きを並べ立てられるだけで
プレーヤーは選択せず返品さえするものを選んで悦に入ってしまう可能性も高く
そのため
このブログで何度も書いているように
せっかく好きで習い始めて真剣に学び奏でたい…と思っていたヴァイオリンで
リアリティとして本来のヴァイオリンの奏法や音程の取り方を習えている人と違い
イメージとしてそれっぽく(笑)語られ、それらしく奏でるだけの人達というのは
もっとも
ヴァイオリンの音程の取り方を知らないので、代わりに次から次に話を掏り替える
という既述の詐欺的な手法は特異な例だとしても
『ヴァイオリンの重音の音程の取り方 ~その2~』で書いたように
ヴァイオリンという自ら音程を作る作音楽器では音程の取り方は基礎中の基礎で
その指導には正確な知識と緻密な観察に基づく訓練の反復が必須にもかかわらず
そうした指導を受けられない者や、そうした指導を受けたことがない者が巷に溢れ
兎に角ひいて弾いて弾きまくって徐々にそれっぽい音程に近づけているような人が
アマチュアのみならず音大卒生やプロのなかにも大勢居るという現実があります。
挙句に
ヴァイオリンで正しい音程が取れると美しい音が響くことや、そうした音に対して
「そうそう、天麩羅を揚げているような音が(微かに)聞こえますね」と言ったり
「そうそう、線香花火の音が(微かに)聞こえますね」と言うことについて
ヴァイオリンのそうした正しいレッスンを受けたことのない者のなかには
正しい音程が取れた際に天麩羅を揚げているような音が微かに聞こえる=潰れた音
正しい音程を選ぶ際に微かに線香花火のような音が聞こえる中から選ぶ=濁った音
などと誤想し曲解する者まで居たりするのです(笑)
とはいえ
「日本語の用例集というのは、日本語を正しく綴る練習をするための教本」であり
「日本語の用例集を使うなら、日本語の文字の読み書きができていないと使えない」
のと同じで
そうしたことさえも、全く考えることもなければわかる筈もない人達も巷に溢れ
日本語の文字の読み書きもできないで日本語の用例集を使うかの如くに
音程の取り方もわかっていないままで音階練習の教本を復習う人が居る現状には
どうしてそのおかしさに気づかないのか?と思うばかりです。
そうしたヴァイオリン本来の音程の取り方をレッスンしてもらえていない人達は
指板にシールを貼ったりチューナーやピアノやCDで音程を学ぼうとするそうですが
『ヴァイオリンがうまくなる「生命の水」!? ではなく… ~その2~』
に書いたように半音には半音と半音というように異なる種類があるなか
ピアノはいくら叩いてみても、そもそも半音と半音の区別がない楽器であることや
CDではヴァイオリンの響きを聴いて音程を取る手段も手掛かりも得られないことや
冒頭では、次々に話を掏り替える詐術を弄している特異な先生?の例を挙げましたが
そうした詐術以外でも、音程の取り方もわからずにガチャガチャと音階を復習う
徒労ともいえる状況が巷で繰り広げられていることは、異常な事態だと言えます。
では
自分の受けているヴァイオリンのレッスンが、はたしてそのように異常なのかどうか
ということを知るためにはどうしたらいいのかといえば
ひとつには、細かく観察することと
ひとつには、『真実の鏡』を用いることです。
ということで
細かく観察するというのはどういうことかといえば
例えば下掲の写真で
はたして、本物のウミネコはどれ?などということは見れば誰もがわかる筈ですが
なかには、中央の2羽は本物のウミネコではなく単に着色されているだけでは?
などと思う人も居るかもしれませんが
ひとつには、その足元を観察すれば、銅像とは違い少ない接地面で立っているので
それと同じで
ひとつには、その指導者?の周りに同じヴァイオリンの先生が居るかどうかを見て
例えば、同じヴァイオリンの演奏者や指導者達と交流が有るなら信頼できますが
反対に、同じヴァイオリンの演奏者や指導者との交流が皆無では信頼できませんし
ひとつには、その指導者?がどのような指導に立脚しているか?という点も見て
そのように
ヴァイオリンの本来の音程の取り方を知らずわからず習えない状況が
蔓延しているからこそ、私のサイトで掲げた
指導者ならびに演奏者の方へのレッスンも必要になっているのだと思いますし
私のサイトにはヴァイオリンの音程の取り方というページもありますが
いずれも読んだり見たりしているだけでは役立たないことは言うまでもありません。
もっとも
ここでもまたぞろ
先生が勝手に他所で弾いているばかりで、生徒の発表会の類は一切開かず
「レッスンや、身近な人に聴いてもらったり、録音するのも発表会」などと唱え
それならなかなか巧く弾けなくても仕方がない…と思わせるように話を掏り替え
そこにさらにまたしてもスピリチュアルな語りを重ねることで騙しおおしてしまう
事例すらあるので、注意が必要です。
基礎の不足は、スピリチュアルではない指導においてのみ補えるのであり
その指導が、はたしてスピリチュアルであるか否かは
シールやチューナーやピアノやCDではなく、ヴァイオリンの響きこそを聴き
指幅、全音、半音などではないヴァイオリンならではの音程の取り方を
一音いちおん具体的に指導してもらえているかどうかという一点において
見破ることができるのです。
もっとも
そのように見破ることは、何も特定の教室や指導者に対してだけではなく
ヴァイオリンを教える、総ての指導の場において成し得るものなのですが
そのように見破ることで
『ヴァイオリンがうまくなる「生命の水」!? ではなく… ~その2~』
で書いたように
自分の先生はキチンと教えていると思ったら、実は弾きまくらせているだけだった
自分の先生はT朋或いはG大卒の先生なのに、実は弾きまくっていただけだった
自分の先生は海外の○○音大に留学したのに、実は弾きまくっていただけだった
自分の先生は有名オーケストラの団員なのに、実は弾きまくっていただけだった
という現実を知ることになるかもしれません。
是非とも勇気をもって『真実の鏡』を覗くべく、自らの日頃の演奏を録音し
是非とも勇気をもって『真実の鏡』の姿を見て、自らの日頃受けている指導は
見極める、ならぬ、聴極めて欲しいと願わずには居られません。
もっとも
そもそもこのブログはブログの目次のページにも記したように
レッスンを申し込まれる判断材料として
レッスン方針・レッスン形態のページなどとも併せてご覧いただくために
書いているものですが、それすらさえ通じることなく
このブログを眺めて悦に入るだけ…という方も居るようなので(笑)
既述のようなことを呼びかけてみたところで、通じないのかもしれません。
残念です。
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